第1法則 楕円軌道の発見
プトレマイオス(\(AD~2~C~\)頃)の天動説では, 惑星の不規則な運動を説明するために, 周転円というアイデアが用いられていた。周転円とはその中心が基本軌道(導円という)を回る円の事である。天動説では周転円の上に更に周転円を重ねたり, 果ては地球(宇宙の中心)をエカントと呼ばれる特別な位置にずらした。コペルニクス(1473~1543)はその不自然さに疑問を持ち, 独自の考察によって, 1543年「天球の回転について」を著した。コペルニクス的転回「地動説」の誕生である。
コペルニクスの地動説では, その不自然さは大分解消されたものの, コペルニクスの没後現れたデンマークの貴族ティコ・ブラーエ (1546~1601) の観測結果との差は大きかった。ケプラー(1571~1630)はブラーエの観測データに基づき計算を始めた。その際, 太陽を中心とする円ではなく, 半径は導円と等しく, 中心を周転円の半径だけずらした離心円を用いた。惑星は周転円上を1年で1周する。地動説では離心円を用いた惑星軌道の精度は高く, 周転円のアイデアも捨てたものではない。
ケプラーは数年にわたり60回余りの計算をくりかえし, 当時の観測精度を考えれば十分満足のおける結果を得た。しかし彼は妥協出来なかった。ブラーエの観測データと8分角(0.13度)がどうしても合わないのである。
そのとき「
偶然」に図の\(\angle NEH \)\((5^\circ 18')\)の正割(セカント:\(cos~\)の逆数)\(1.00429\)に思い至った。
途中の計算は三平方の定理程度であるが, 大変ごちゃごちゃとしている。ケプラーも試行錯誤だったのだろ
う。
離心円の半径を\(~1~\)とすると, 観測データから明らかになっている
\[e = NH =0.09265, EB = sec(5^\circ 18')-1 = 0.00429 \]
等を用いて,
\[NEcos(5^\circ 18')= EH =NB\]
が得られた。火星と太陽との距離は, 離心円上の点と太陽の距離に\(cos(5^\circ 18')\)を乗じて得られる。さらに計算を進め, 以下を得た。
\[DF:MF =1: \sqrt{1-e^{2}} \]
\[EH:BH =1: \sqrt{1-e^{2}} \]
離心円を\(~EK~\)の方向に\(~\sqrt{1-e^{2}}~\)倍に縮めたものである。この\(M, B~\)の軌跡こそ, 「円の呪縛」に別れを告げた楕円である。
楕円とは言っても, 離心円の半径\(EH\)を\(10cm\)とすると\(EB\)は\(0.4mm\)程度である。殆ど円であり, 極細ペンでも判別は難しい。
下表はケプラーの実際の計算例である。特定の星座に対する, 地球から見た火星の視角を計算するので, 火星だけではなく, 地球の軌道計算も必要だった。
番号2では\(~5'50''\), 番号14では\(~5'39''\)の誤差があるが, その他は見事に観測値と一致してい
る。
実は楕円に至る前に, 誤差が5分角程度の豊頬形の軌道を計算している。豊頬形は色々なパラメータが交錯しており, 楕円の様にシンプルに計算できないようである。ケプラーはただ数値が合えば良しとしたわけではなく, 背後に潜む数学に思いを馳せ, 最終的に楕円軌道を選んだ。
表の番号1~番号22に対応した火星と地球の軌道を描いたのが次図である。
当時は低膨張金属などあるはずもなく, 観測機器は木製である。当然誤差も大きいが, 測定を繰り返すことにより誤差が平均化される。ティコ・ブラーエの膨大な観測データを信じ, 飽くなき追及によって楕円軌道を突き止めたケプラー。
後回しになってしまったが, 面積速度一定の原理, 及び公転周期と軌道半径の完璧な関係式がそろった。あとはニュートンの登場を待つだけである。ケプラー没後12年を経てニュートンが誕生する。